きょうのできごと(柴崎友香)あらすじと感想

きょうのできごと あらすじ

友人の正道の引っ越し祝いに集まった、中沢・けいと・真紀・かわち。

正道の友達の中沢と、正道の後輩のかわち。中沢の幼馴染のけいと、けいとの友達で中沢の彼女の真紀。

引っ越し祝いの飲み会の日の昼間から、翌日明け方までを、5人それぞれの視点で小さく切り出したさりげない5つのエピソード。

ありふれた、どこにでもいそうな大学生の、いつもと変わらない日常の中にも、何もなさそうでもでもいろいろな想いや出来事がある。

小さくてささやかでも、確かに切なくい愛おしい。

芥川賞作家の柴崎友香のデビュー作。

きょうのできごと 感想

柴崎友香氏のデビュー作。

柴崎友香氏は本書でデビューし、のちに「春の庭」で芥川賞を受賞する、純文学系の作家です。だから、本書も純文学系。

何も起こらない小説です。

何も、事件らしい出来事は何も起こらない、何も始まらないし、何も解決しない。

ただ淡々と、日常の延長線上にあるとある夜と、その前後の1日のいくつかのシーンを、切り取って書きだしただけのように思える小説。

登場人物の5人がそれぞれの視点で展開されるさりげない場面が、やわらかな関西弁とともに書き出されて並んでいる。しかも時系列順ですらなく、バラバラに。

だから何?と。何にも起こらないし、ただの日常だし、つまらない。という評価もあるだろうなと思います。

それが純文学系っぽいし、実際そうなんだと思う。

純文学系はつまらない、というのは、結構よく聞くことです。言っている意味は、よく分かります。

確かにつまらない感じがする。盛り上がりもないし、面白い部分がよくわからないので、楽しみ方がよくわからない。

だから純文学系はつまらない。

だけど私はちょっと思うのです。それは、今、その本を楽しめる自分ではないだけなのではないか、と思うのです。

私がこの今日の出来事に出会ったのは確か、学生時代でした。

図書館に新刊本として並んだ単行本の表紙に魅かれていそいそと借りてきて、それで読み始めて域に引き込まれた。そんな記憶があります。

ちょうど私はそのころ、この本の登場人物と同じくらいの年代かちょっと下くらいで、だからこの本に切り取らている空気感、雰囲気、感情などが、手に取るように分かりました。理解できた、というより、同じ時間軸の中を生きていたので、非常に身近なものとしてなじんだ、という感じ。

それは私にとっても日常のちょっと先にあるような出来事で、例えば友達の友達の話とか、そのくらいの空気管として、感じていたように思う。

だから何も起こらないからつまらないとか、越智がないから退屈とか言った感想は抱き用もなく、自然に強く共感した記憶があるのです。

今、もう何年もたって子供もいるような今の私が初めてこの本を読んだとしても、ふーん、若いなぁ、とか、なんかそんな程度のありきたりな感想しか抱けないかもしれないし、そもそも退屈すぎて読み切れないかもしれない。

でも、初めてこの本を読んだあの頃。この静かで他愛無い日常を描きだした「きょうのできごと」を読んでいたあの時、退屈な作品だ、などと微塵も感じなかったことはよく覚えているのです。

それは、本の感想というよりも実感でした。

青春と呼ばれる時代の最後の方、この他愛なくさりげない日常が、どれほど得難くてかけがえのない時間なのか・・・チリチリとした焦燥感とともに、私は時に感傷的に、時に無意識のまま、ずっと感じていた。

この日常は、多分かけがえがない。しかも、もうすぐに終わる。そんな実感。

ちょうどそんな頃にこの本を読んだので、たとえ物語の中で何か特別な事件なんか起こらなくても、ただ日常が切り取られているだけであっても、退屈なんて微塵も感じなかった。ただただ強く共感して。

十数年ぶりに、何度目かで読み返してみたら、本当に何にも怒らない小説だったんだなぁと改めて思いました。

今この本を初めて読んだら、ちょっと退屈だと思うかもしれない。私の日常はせわしなく、青春と呼ばれた日々は遥か彼方で、だからいまこの小説の空気何にどっぷり共感するというのはかなり難しい。

ただ、私にはこの本に対して、あの頃、強く強く共感した記憶が残っている。だから今もいい小説だと思える、かなりの懐かしさとともに。

この本をおすすめするとしたらだから、二十歳前後とか、25くらいまでの方、だと思う。

何も起こらない、事件も、解決も、何もないただ日常を切り取っただけという小説に、不思議なほど共感を覚えるとしたらきっとそのくらいの年齢で、こういう純文学系の小説ってそういう、そのとき強く共感できるできる、身にしみこむように読めてしまう時期に読めばいいのではないかなぁと思うのです。

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